この会社に入った経緯 -前編-
2008年 3月某日
冬の寒さもだいぶ和らいで春の訪れを感じられるようになった頃、俺は新宿西口にある某家電量販店の地下フロアに居た。
インターネット回線の契約手続きをするためだ。
それまで3年ほど住んでいた世田谷区砧の古いマンションから、新しく葛飾区新小岩にアパートを借りて引っ越しが決まったのだ。
そして、この引っ越しを機にプロバイダの乗り換えを検討していた。
半年近くに及んだ暗くて、苦しくて、厳しかった転職活動を乗り越え、なんとか4月から新しい職場で働くことが決まっていた。そして、5月には新しい生命が産まれて家族が増えることになっていたのだ。
「心機一転」 まさにその言葉が相応しい状況にいた。
すべてがうまく周りはじめて、なにをやっても成功するんじゃないかという錯覚すら覚えていた。
無事にネット回線の契約も終え、回線工事の日程も決まりその日のやるべきことは終わった。ただ一つ、まだ砧のマンションには梱包が終わっていない荷物が山積みされている。 これを片付けないと俺に本当の春は来ない。
カウンター席を立つと、駅へ向かうため足早に地下フロアを通り抜けた。
新しい生活に備えて家電なんかも新調しようと考えていた。
だが家電フロアをゆっくり見て回るような浮かれた時間はまだ先のお楽しみにとっておく必要があった。
まずは引っ越しという最重要任務を滞りなく完遂させなければならない。
こんな家電量販店などという誘惑に満ちた甘美なスポットはいち早く遠ざかるに限る。
周囲の誘惑には目もくれず地上へ出る階段を目指してひたすら歩き続けた。
そして階段に近づいたとき、ポケットの中の携帯電話が振るえた。
携帯をポケットから取り出してディスプレイを見ると、4月から勤める予定の内定を頂いた会社の番号が表示されていた。
・・・入社前になにか事前のお知らせでもあるのかな?・・・
そんなふうに軽く考えていたとおもう。
「はい、俺です。先日はありがとうございました。」
できるだけ明るく、先日内定の連絡を頂いた際のお礼も併せて電話に出た。
社会人として最低限のマナーだ。
「あ~俺さん? 今、電話大丈夫?」
面接を担当していただいた方だと思った。
「はい。大丈夫です。何かありましたでしょうか。」
努めて明るく対応する。
「あの~、、このあいだの内定の件なんですけどねぇ。。。」
なんだ?・・・なんとも言えない空気を、携帯電話の向こうから感じた。
「実は他に良い人が見つかりましてね、、で~なんというか、俺さんの内定をね。。。
取り消したいんですけど、大丈夫ですか?」
は? 一瞬、なにを言っているのか理解できなかった。
内定…取り消し!? だが、すぐに理解できた。
折しもその時は新卒学生の内定取り消し問題で世の中が騒いでいたときだった。
まさか30歳手前の自分にも降り掛かってくることになるとは思いもよらなかった。
「大丈夫ですか?」と聞かれて、返事をするまでに2秒くらいあったと思う。
その2秒の間に頭の中がフル回転していた。
内定取り消しって、どうすんの?また就職活動をいちからやり直すの?
ってか、なんなの!?こいつ、いやこの会社??
内定取り消しって、人の人生に大きく関わることを簡単に電話一本で済ませちゃうの?
これって、訴えを起せば勝てる案件じゃないの?
なんともいえない感情がこみ上げてきて一気に腹が立った。
そして、2秒後には電話に向かって意味のわからない返事をしていた。
「大丈夫じゃねぇけど、、、大丈夫ですっ!!(怒)」
まったくもって意味不明だ。
そのまま、きちんと挨拶もせずに一方的に電話を切ってしまった。
社会人としてあるまじき行為である。
大丈夫なわけねぇだろ!きちんと説明しろ!! と怒鳴りたい気持ちもあったが、こんな簡単に人を切り捨てることができる薄情な会社だったのか、と冷静に思う一面もあった。
電話を切る際、先方は少し後ろめたい気持ちを含んだかのような言い回しで社交辞令全開の謝罪的な言葉を発していたと思うが、俺の頭には一つも入ってこなかった。
わずか1~2分足らずの電話でのやり取りだったとおもう。
思い描いていた未来が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく光景が目に浮かんだ。
いろんなことを考えていたと思う。
半年間の無収入期間とアパートの契約やなんかで貯金なんかはもう底をついていた。
先の見えない不安感に襲われながら、ふらふらと歩きだしていた。
地上に上がる階段から踵を返し契約カウンターに向かった。
つい先程、契約をしたネット回線を一旦解約しなければならない。
すぐに仕事が見つかりまた元のような生活に戻れるという自信がすっかりなくなってしまっていた。
契約を担当してくれた担当者を見つけて、先程の契約を取りやめたい旨を話すと俺の顔色を見てなにかを察したのかすんなりと解約してくれた。まぁまだなにも事務処理をしていなかったのだろう、先程書いた契約書をその場で破り捨てて何もなかったコトにしてくれた。
ただただ不安な気持ちをいっぱいに地上へ出たとき、新宿西口には冷たい雨が降っていた。
寒さも和らぎ春の訪れを感じていたはずなのに、俺だけ真冬に戻った気がしていた。
悔しさや腹立たしさ、不安などいろんな感情が入り乱れて声を出して泣きたくなったと思う。
人混みの中でひとりの男が泣いていても誰も気にもとめない。冷たい雨がこの気持をすべて流し去ってくれただろう。
俺は雑踏の中をゆっくりと駅に向かって歩いていった。
続く