この会社に入った経緯 -後編-
一本の電話でお先が真っ暗になった ” 新宿西口事変 ” からの俺の動きは早かった。
不安な気持ちをいっぱいに残したまま、翌日から動き始めた。
内定が取り消され、新小岩に住む理由がなくなったため、アパートの契約をした不動産屋に解約を申し出た。
引っ越しの見積もりもキャンセルし、ひとまず砧のアパートの契約を更新するすべくこちらの不動産屋にも申し出た。
新小岩の不動産屋曰く、
「契約書を交わしたので解約しても、敷金は戻せない」の一点張り。
砧の不動産屋もこう宣う、
「契約を更新しない旨の申し出を受理したので、もう戻れない。契約するならいちから敷金・礼金を払え」
どちらも言ってることは正しい、、、
恥を忍んでこちらの事情をすべて説明したのだが、「そう言われてもねぇ・・・」
そりゃそうだろう。そんな境遇の人間なんて東京にはゴマンといるだろう。
真っ当に商売している不動産屋はNPOじゃあるまいし、いちいちそんなのに付き合ってられない。
さぁ困った。体制を立て直すべく、拠点となる住処を決めないといけないが蓄えはもう底をつき先立つものがない。。。
数年前、仕事で深夜に渋谷を訪れたときスクランブル交差点の角にある東京メトロへ降りる階段で寝泊まりするホームレスを見た。
大きなバッグを2つ3つ抱えた年の頃20代前半とおぼしき若者だった。
なぜこのような若者が住むところもなく路上で生活しているのか?
その時はわからなかったが、まさに自分がその境遇に一歩足を踏み入れつつあることに気づいた。 そしてとても恐ろしくなった。
仕事が見つかるまでアパートの賃貸契約なんかできない。そもそも住所不定の人間を雇い入れる企業なんて無いだろう。もうすぐ産まれてくる子供をどうやって育てていけばいいんだ?
途方に暮れながら、そろそろ臨月を迎えるため一足先に里帰りしている妻に電話をかける。
新宿西口事変からホームレスデビュー間近までの流れをざっと早口でまくしたてた。
黙って聞いていた妻は、俺がひとしきり喋り終えるのを待ってこう言った。
「もう、、、なにしとんな? 仕方ないから一旦こっちに帰ってきな!」
拍子抜けした覚えがある。
もっと叱られるかと思った。
”何やってんだ!” ”不甲斐ない” ”もっと頑張れ!!”
そんなことを言われるんじゃないかと思っていた。
地元で生まれ育ち、20数年の間一度も地元を離れたことがなかった。
「もっと外の世界をみてみよう」と一念発起し、海外に飛び出した。
海外での1年間の生活を経て、日本に帰ってきて次に選んだ場所が東京だった。
東京で過ごした時間は、わずか3年間。
地元を離れて4年もしないうちに、また戻ることになったのだ。
荷物を車に詰め込み環八沿いの東名高速用賀インターから一路、地元の四国を目指す。
東京を出る頃にはすっかり日も傾きあたりは薄暗くなっていた。
やり残したことがいっぱいあり過ぎて、後ろ髪惹かれまくりだったが後ろを振り返ることなく車を走らせた。
車の中で何か音楽をかけていた覚えがある。何の曲だったかは覚えていないが、その時の心境にすごくマッチした歌詞で、ハンドルを握りながら大声で歌った。
そうやって気持ちを紛らわそうとしたのだろう。
12時間のドライブを終え実家に辿り着いたのは翌日の早朝、荷物の開梱もそこそこにして地元のハローワーク(当時は職業安定所)を覗いてみた。
そこでいくつか良さそうな企業をピックアップして、面接をお願いしてもらった。
確か、ひとつは地元の印刷会社でDTPのオペレーター。
もうひとつがオリジナルTシャツなるものを作成している企業のDTPオペレーターだった。
面接のアポイントが取れたのが後者の企業だった。
ここからは、トントン拍子にことが進む。
履歴書をしっかり作り込み、ポートフォリオを作り直し面接に挑んだ。
面接が終わって1時間もしないうちに、返事の電話があった。
「あなた採用ね♪ 明日から…いや駐車場の準備があるから、、、じゃあ、明後日から来て~」 ※総務の奥さん
軽い! なんという軽さ!!
新宿西口での、あの冷たい雨はなんだったのか!
渋谷の若いホームレスに見た、将来の不安は何だったのか!
こうして俺の半年以上に及んだ転職活動は幕を閉じたのだった。
それから10年。
今、おれは紆余曲折を経て中間管理職の立場にいる。
あれから東京へは仕事やプライベートで何度か訪れている。
世田谷区砧のマンション。もう一度見てみたい気もするが一度も行っていない。
Googleストリートビューで見ると、今も駐輪場には当時の足として使っていたバイクが停まっている。そこだけあのときのまま時間が止まっているかのようだった。
終わり